2009年07月02日

六本松地区 総面積約6.5ha

総面積約6.5ha

使用学部:
使用研究院・学府:言語文化研究院、理学研究院、数理学研究院
使用附属施設:
最寄り駅:福岡市地下鉄七隈線六本松駅
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旧制福岡高等学校の跡地。教養部が解体されたのちも全学教育科目(一般教養教育)の大部分はこの地区で行われていた。多くの科目は言語文化研究院、比較社会文化研究院所属の教員によって実施されている。六本松時代には、将来の専攻に関連する講義を受けるために、各学部の専門キャンパス(箱崎・馬出・大橋・伊都)に行く曜日があり、それを「箱崎日(箱日)」、「馬出日(馬日)」、「大橋日」、「伊都日」又は「元岡日」(元岡=伊都キャンパス。詳細後述)などと呼ぶこともある。また、単位履修の関係で1日に六本松と箱崎両方のキャンパスに行く日などがあり、それを「箱松日」などと呼んだりする。なお2009年3月に閉鎖された田島寮はこの地区(樋井川対岸の城南区田島)にあり初年度の学生の便宜を図っていた。全学教育科目、比較社会文化学府/研究院は2009年4月に伊都地区へ移転、数理学研究院・数理学府は2009年10月に伊都地区へ移転予定。

福岡県立筑紫丘高等学校の用地・建物を転用した旧福岡学芸大学(現福岡教育大学)福岡分校の跡地。かつての九州芸術工科大学で、芸術工学を学ぶ場所となっている。また、建築物のデザインは他の地区とは様相が大きく異なっている。大橋、筑紫地区男子学生を対象とした学生寄宿舎として井尻寮が設置されている。

2009年06月13日

超弦理論(ちょうげんりろん、superstring theory)は

超弦理論(ちょうげんりろん、superstring theory)は物理学の理論、仮説のひとつ。 物質の基本的単位を大きさが無限に小さなゼロ次元の点粒子ではなく1次元の拡がりをもつ弦であると考える弦理論に超対称性という考えを加え拡張したもの。 超ひも理論とも呼ばれる。

宇宙の姿やその誕生のメカニズムを解き明かし、同時に原子、素粒子、クォークといった微小な物のさらにその先の世界を説明する理論の候補として、世界の先端物理学で活発に研究されている理論である。この理論は現在、理論的な矛盾を除去することには成功しているが、なお不完全な点を指摘する専門家もおり、また実験により検証することが困難であろうとみなされているため、物理学の定説となるまでには至っていない。

超弦理論以前の理論のなかで最も小さなスケールを記述する理論は場の量子論であるが、そこでは粒子を点、すなわち点粒子として扱ってきた。 一方、超弦理論では粒子を弦の振動として表わす。1960年代、イタリアの物理学者、ガブリエーレ・ヴェネツィアーノが核子の内部で働く「強い力」の性質をベータ関数で表わし、その式の示す構造が「弦(string)」により記述されることに南部らが気づいたことから始まる。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

弦には「閉じた弦」と「開いた弦」の2種類を考えることができ、開いた弦はスピン1のゲージ粒子(光子、ウィークボソン、グルーオンなどに相当)を含み、閉じた弦はスピン2の重力子を含む。 開いた弦の相互作用を考えるとどうしても閉じた弦、すなわち重力子を含まざるを得ない。そのため、強い力のみを記述する理論と捉えることは難しいことがわかった。

逆に言えば、弦を基本要素と考えることで、自然に重力を量子化したものが得られると考えられる。そのため、超弦理論は万物の理論となりうる可能性がある。超弦理論は素粒子の標準模型の様々な粒子を導出しうる大きな自由度を持ち、それを元に現在までに様々なモデルが提案されている。

このように極めて小さい弦を宇宙の最小基本要素と考え、自然界のすべての力を数学的に表現しようというのが、いわゆる弦理論(超弦理論、M理論を含む)の目指すところである。

この理論の想定する「ひも」の大きさが実証不可能に思えるほど小さい(プランク長程度とすると 10-35m)ことなどから、物理学の定説としての地位を得るには至っていない。また今後実証されるかどうかも未知数の理論である。

2009年06月09日

代替医療(だいたいいりょう、alternative medicine)

代替医療(だいたいいりょう、alternative medicine) とは、「通常医療の代わりに用いられる医療」という意味が込められた用語である。代替医療は「補完医療」「相補医療」とも呼ばれる。米国でも日本でも学会等正式の場では「補完代替医療」(Complementary and Alternative Medicine:CAM)の名称が使われることが多いようである。通常医療と代替医療の二つを統合した医療は「統合医療」と呼ばれる。

代替医療を全て分類しきることは困難であるが、以下の4つのタイプに大まかに分類することが可能であろう。
家庭教師 近畿東海 エイジ マンション フレグランス 宣伝 葬儀 老人 グルメ 精神医学 スポーツ 外国語 自動車 通信教育 国内 豊胸 九州沖縄 脱毛 転職 リフォーム 法人設立 育児 インポ ペット 抜け毛 家電 生涯学習 旅行 英会話 特産物 プチ整形 就職 ホテル ネイル SEO対策 引越し マンション 出会い インポ アウトドア 抜け毛 健康食品 予備校 スポット スクール 交通地図 豊胸 在宅 養毛 SOHO

伝統医学
伝統中国医学、気功、アーユルヴェーダ(インド医学)、ユナニ医学(イスラム医学)等、数百年以上の長きに渡り、それぞれの国で多くの伝統医師により研究・継承されてきた歴史・伝統があって、奥深さや広がりを伴った体系を持っており、各国の国民の健康を長らく支えてきた実績のあるもの。近代以降、“西洋医学”が前面に出てくるまでは、むしろこちらが主流であったもの。
民間療法
国家的な広がりまではなく、小集団によるもの。歴史があるものも、最近登場したものもある。アメリカで発祥したカイロプラクティック、オステオパシー、など。
栄養にまつわる療法
食餌療法の延長として、効果を期待するもの。特定の食事、食事法のこともあれば、食事成分のこともある。食事成分の場合、完全に同一成分の錠剤を摂取しても保険制度を利用すれば通常医療という位置づけになる。
最先端治療法
西洋医学の医師によって研究され、一部では用いられた例はあったとしても、まだ大半の医師からは標準的な治療としては認知されていないもの。サイマティクスー音響療法はWHOで代替医療として認知されており、日本においても外科、内科、心療内科などで治療に用いられているが認知度は低い。

欧米の先進国において代替医療の利用頻度が急速に増加している[1]。1990年代以降に代替医療への関心が高まっており、さらに代替医療の科学的研究に大きく予算が配分され政策として実行されてきた。

1993年、デービッド・アイゼンバーグ博士(ハーバード大学代替医学研究センター所長)は、アメリカ合衆国国民の代替医療の利用状況についての調査報告を発表した。この調査は、この研究センターが研究している16種類の代替医療に関してのみを調査対象にしていた。にもかかわらず、利用状況は医師らの予想をはるかに超えていた。

1990年時点で、これら16種類の代替医療を受けたアメリカ国民は、全国民の34%に達していた。代替医療の機関(治療院、ルーム等)への外来回数はのべ4億2700万回に達していた。この数は、かかりつけ開業医への外来3億3800万回を超えるものだった。当時は保険会社はまだ非西洋医療に保険を適用していなかったので、代替医療の利用者は自分で費用を負担してでも進んで代替医療を利用しようとしていることがわかる。

1997年の調査では、代替医療への外来回数は6億2900万回になり、90年の調査時のおよそ1.5倍に増加した。

調査前、医師の大半は、「代替医療の利用者は教養のない人たちだろう」と想像していた。ところが調査の結果判明したことは、その反対で、代替医療は大学以上の教育を受けた教育水準の高い人たち(アメリカで言えば中?上級レベルに当たる)に多く支持されているという事実である。アメリカでは(現在の日本とは異なり)健康保険の入る入らないは個人の選択であり自由であるので、これは、高学歴で高収入で健康保険に加入している率が高い層が代替医療を支持している、ということも意味している。

2009年04月25日

カイカーウス1世

カイカーウス1世は、ルーム・セルジューク朝のスルタン(在位:1211年‐1220年)。
ルーム・セルジューク朝のスルタン・カイホスロー1世の息子。1211年に父が死ぬと、弟のカイクバードと後継の座を争い、勝利して弟を幽閉した。ルーム・セルジューク朝の経済的自立を目指し、キプロス王国と交易条約を締結。さらに地中海の海上交易路獲得を目指し、南方のキリキアにあるキリキア・アルメニア王国を服属させた。また第5回十字軍と結び、アイユーブ朝に二正面戦争を強いた。
1214年にトレビゾンド帝国のアレクシオス1世を狩猟中に捕らえ、身代金として黒海に面するスィノプの港を割譲させた。スィノプは地中海のアンタルヤと共に、ルーム・セルジューク朝の重要な海上交易拠点となった。カイカーウスはこの重要都市の総督にアルメニア人ライス・ヘトウムを任命し、1215年にはギリシア人セバストスの監督下で城壁が修復された。修復を記念するアラビア語とギリシア語で書かれた碑文が、西門に近い塔にはめ込まれている。

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1217年にはスィヴァスにシファイイェ・メドレセを着工した。このメドレセには病院も付属していた。カイカーウスは1220年に急死し、シファイェ・メドレセの廟に葬られた。青いタイルで飾られたその墓室と石棺は現存し、公開されている。スルタン位は弟カイクバードが継いだ。

2009年04月08日

ディスコ

ディスコ(フランス語:disco)、または、ディスコテーク(フランス語:discothèque)とは、音楽を流し、客にダンスをさせる飲食店である。時には生バンドが演奏する場合もあるが、語源から言っても、ほとんどの場合はレコードを流す。選曲や曲紹介を行うDJの役割が重要である。現在のクラブ音楽でディスコと言う場合は、かつてニューヨークに存在した伝説的なゲイ・ディスコ、パラダイス・ガレージ、ギャラリーなどでプレイされていた様々なジャンルの音楽、またそれらのディスコでのDJの特異なスタイルを指し、現在でも様々なスタイルに変化しつつ、未だに進化を続けている存在であり、現在ガラージュと呼ばれる音楽の元となったものである。しかし現在の日本ではクラブという形態に流行が移り、一般的にディスコといった場合、過去に存在していた飲食店の形態や風俗を指す。
ディスコの語源となったのはフランス語のdiscothèque(ディスコテーク、または、ディスコテック)であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブでレコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり、第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。

この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは60年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクやソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリー(女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場する事ができた)のディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJ、ラリー・レヴァンである。現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、家で聞くためではなくクラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などはこの時期に前記のラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らダンスのためだけに特化したレコードを、プロデューサーとして多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。こうしたダンス・レコードをリリースしてディスコ文化を支えたレコードレーベルとしてはサルソウル、カサブランカ、ウエスト・エンドなどが挙げられる。

やがてゲイが社会的に認知されると社会の多方面に堂々と進出すると同時に、このディスコ音楽も表舞台へと登場し、ゲイ以外の一般のリスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組であるSoul Trainの人気が沸騰した影響で、ほぼ同時多発的にディスコ・ブームが世界的に巻き起こり、大都市のみならず全米でディスコ・クラブが登場し、一般人が押し寄せるようになり、ヒットチャートの上位を独占するようになる。しかし粗製濫造された質の低いレコードや流行の一過、また中核を担ったゲイ音楽シーンがエイズにより壊滅的な被害を受けたことにより、ディスコ・クラブという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉により再びアンダーグランドな物へと回帰し、現在のクラブ音楽へと変貌していく。

日本へと輸入されたディスコとはこのディスコ・ブームの時の白人大衆向けにコマーシャル化されたものであり、ゲイや黒人音楽の要素は非常に薄いものだった。このため日本ではディスコという言葉はかつての風俗としてのディスコと、現在のクラブ音楽の源流としてのディスコの二つの意味が存在している。

以下に述べるのはそうした日本独特の風俗としての「ディスコ」である。

フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール


2009年03月24日

国鉄63系電車

63系は、1944年(昭和19年)から1951年(昭和26年)にかけて大量に製作された運輸通信省鉄道総局および日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車である。

なお、この呼称は同一の設計思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではない。具体的にはモハ63形およびサハ78形を指すが、登場の経緯が異なるものの、ほぼ同一の構造を持つクハ79形も含まれる。

当初、戦時体制下の輸送力増強を目的に開発された電車であるが、21世紀現在に至るまでのJRや大手私鉄でラッシュ輸送に広く用いられている「全長20m、片側4扉」タイプの、通勤輸送向け大型車体を本格採用した最初の電車として、日本の鉄道史上画期的な存在である。

終戦直後の混乱期を背景とした輸送需要の増加に際し、在来車両の戦災損耗や老朽化による著しい輸送力不足を補い、大都市通勤輸送の主力を担った。

しかし、その登場の経緯から極めて粗悪かつ不完全な設計であり、1951年に発生して多くの犠牲者を生じさせた車両火災事故「桜木町事故」に際しては、63系の設計の欠陥が被害を拡大させる原因となった。

桜木町事故における欠陥の露呈に伴い、全ての63系は安全対策を主とした更新修繕を受けて、72系に改称された。

登場の経緯 [編集]
第二次世界大戦末期の1944年、戦局も敗色濃くなる中、兵器生産へ人員を動員するための通勤輸送用として、緊急に開発された。

最初に木造車の改造(鋼体化)名義で「クハ79形」制御車が竣工し、追って「モハ63形」制御電動車及び「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦までに間に合ったのは、わずかにクハ79形7両[1]、モハ63形14両[2]、サハ78形8両にすぎなかった。本格的に量産されるのは終戦後のことであるが、1950年(昭和25年)までの間に実に688両[3]が量産され、戦後復興の一翼を担った。

構造 [編集]
車両の最大長は、従来車と同じく20メートルとされたが、連結器長を縮めて車体長を19.5メートルに延長し、収容力を増加させた。また、幅1000ミリの片開き扉が片側4か所に設置された。満員に詰め込んだラッシュ時の換気に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の大容量のグローブベンチレータを装備したほか、前面上部にもベンチレーターを設けた。また換気促進およびガラスの節約を目的として、側面の窓は3段に区切られ、中段は固定、下段と上段がそれぞれ開けられるように作られた。ガラスの節約のため窓の桟を増やした車両もあった。

全体的には「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という設計思想のもとに、資材を可能な限り極限まで切り詰めた設計がなされた。車端部の形状も工作の簡易化のため単純な切妻構造とされた。雨樋も省略され、代わりに扉の上部に水切りを設けた。また、鋼材の節約のため外板は在来型電車より薄い1.6mm厚[4]、とされ、施工に手間の掛かりカーバイドや酸素を消費する歪み取り措置も行われなかった。車体下部の台枠部分の外板も省略され、台枠側面を露出させている。

電装品も一部が省略されたり、極めて粗悪な代用品が使用されるなどしており、特に絶縁関係の脆弱さは後に桜木町事故の要因となるなど、問題の多いものであった。内装においても通常の車内の内張りが省略され、木造の屋根には骨組みが露出しており、照明はカバーも全くつかない裸電球であった。また最初期の車両については座席はドア脇の床に置かれるドアエンジンを覆う部分以外にはほとんど設置されず、布地も張られていなかった。さながら当時の民家同様、ほとんどバラック同然な車体であった。

また当時は電装部品が不足していたため、運転台付きの電動車として計画されながら、床下に主電動機や主制御器などの電装品がない状態のまま制御車扱いで運用に入った車両も多かった。さらにひどい場合は電装品どころか、運転台に装備する主幹制御器やブレーキ制御弁などの機器もないため、付随車扱いの状態で運用に入った車両さえあった。それらの車両は識別のため本来の「モハ」の記号に代えて「クモハ」(制御車代用)・「サモハ」(付随車代用)と標記していた[5]。

終戦後の混乱が次第に落ち着き、資材不足が収まってゆくにつれて、内張りや座席も整備されていった。1948年(昭和23年)から座席の座面に布を張り、照明はグローブ付きに、扉は鋼製になった。1950年に63形として最後に製造された4両(63855 - 63858)は雨樋が付き、屋根の水切りと前面上部のベンチレーターがなくなるなど、車体構造の面では戦前の水準まで回復した。

しょうや ムンバ イルラ 永遠の約束 ブースター サルフ 享禄 きんちゃく パンダル マネタリ アップ アート フラゲ ニュース 星かげ 月の宮 スタジ 野の花 リミット トラック 日本海 ケーソ ブラワサ じょうるり レビュー 未来世紀 ビッドレ オーバ ストーンカメ 女峰 ブッファ シャリン セイシェル ファイ シング スチーム ティグ バトル ストップ レーダー オーパーツ ブイエ デデリ ギブアップ ピラー 時計台 タネソウ サーチカヤ タイミ レジュ

2009年03月08日

アンホ爆薬

アンホ爆薬(あんほばくやく、Anmonium Nitrate Fuel Oil explosive, ANFO, 硝安油剤爆薬(しょうあんゆざいばくやく))は、爆薬の一種。

火薬学会規格(VI)によれば、硝酸アンモニウムと燃料油(引火点50℃以上)からなり、他の火薬、爆薬、金属粉等を含まない爆薬で工業雷管または電気雷管で起爆しないものをいう。配合例は、硝安94%燃料油6%。起爆には他の爆薬(ダイナマイト等)を雷管で起爆し伝爆する。ダイナマイトよりも安全(発生ガスの量に比して発生熱量が少ない)かつ安価なので砕石などの坑外発破に急速に使用を広げた。日本で製造が始まったのは1964年である。

アンホ爆薬が発明されたのは1950年代後半であるが、発明者は不明で、製法の特許も存在しない。ただし当時北米ではロバート・アッカーやメルヴィン・クックが硝安と種々の物質を組み合わせた安価な爆薬の特許を多数取っている。特にクックは硝安と水、鋭感剤といった比較的入手性の高い原料から作られるスラリー爆薬をカナダの鉱山で実用していたこともあり、誰かがディーゼル燃料として入手性の高い軽油と硝安を混ぜてみたのであろう。特許が無いため北米から世界に急速に広まった。日本で製造が始まったのは1964年である。
秋日和 プレス タンポポ ダブル マイケル ビーカー ナリラ フェア ストリ テロメ シャープ オール シャッポ ゆりはま ユーアー フレア トルク リリシ マルチ ソファ ウテルス みこも コデマリ ノータッチ ヘルパー ミョウガ シビア ゼッケン プラー フィンランド 仙人掌 ゲル対策 美の気配 スタッカー ヌートリア パンサー グロビン かいづか プロポョン スイング オステ ノール おのいし お座敷 パラッツ ゆとう シナモン フットケア サポーター バスターズ

ダイナマイトより安全かつ安価なので砕石などの坑外発破に急速に使用を広げた。最初は既存のダイナマイト製造者がアンホを製造し、ダイナマイトと同様に一本ずつ包装したが、それではアンホの利点を利用できないので、発破業界で製造し、バルクで発破現場に運搬し、発破孔に注入するようになり、さらに火薬類取締法の改正で移動式製造機の使用が可能になり、肥料硝安と軽油から発破現場で製造してアンホの利点を完全に享受できるようになった。

アンホがダイナマイトと製造量で比肩したのは1973年であり、最近ではダイナマイトの約3倍以上の量が使用されている(その代わり国によってはこれを使った密漁が横行しており、材料がどこでも入手可能なため取締りが困難である)。

主成分の硝安は軽油を良く吸収するように多孔質プリル状のものを使用する。これは硝安製造工場で高い塔頂から熱溶融硝安をスプレーし、落下中に冷却して粒体にする。硝安は保存中に空気から湿気を吸い固化する性質があるので、有機防結剤を添加するが法規上0.2%以下と規定されている。有機物があると硝安の爆発性が増し危険なためである。またアンホは雷管では起爆されないことが法規上の絶対条件であるが、ある種の有機防結剤は製品アンホの雷管感度を上げてしまう。

2009年02月20日

ドメル

ドメルは、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』に登場する、架空の人物。ガミラス軍銀河系方面軍作戦司令長官(太陽系方面軍作戦司令長官)。(声:小林修)

「宇宙の狼」と呼ばれるガミラス帝国が誇る名将。理論派にして実行力のともなう優秀な軍人であった。小マゼラン方面軍作戦司令長官として、ルビー戦線で功労があり、ガミラスの最高功労勲章であるデスラー勲章を何度か授与されている。

デスラーに対して、ヤマト撃破を志願し、銀河系方面軍作戦司令長官に任命され、バラン星に赴任していった。この人事にバラン星基地司令官から降格されたゲールは不満を抱く。また、一応は先任で年長でもあるゲールに対するドメルの態度もお世辞にも良いものとは言えなかった。ゲールの不満は蓄積し、やがてドメルの思わぬ形で爆発する。

約3000隻の艦隊を率いて異次元空間における演習中、マゼラニック・ストリームから異次元断層に落ち込んだヤマトと初めて相まみえた。ヤマトの実力を見破り、その日の日記を「ヤマトに遭遇、あなどりがたし」と結んだ(舞台は2199年と遥か先の未来だが、タイプライターを使って日記を記している)。その後は、ゲールのバラノドンによる攻撃は別として、空間リレー衛星を使っての心理戦や、宇宙要塞によるマグネトロン・ウェーブ攻撃をヤマトに仕掛けた。

バラン星にヤマトが到達した時には、バラン星の衛星である人工太陽をヤマトに落としバラン星基地もろともヤマトを屠る作戦計画を立案遂行する。しかし味方の犠牲をも厭わない(そして事前に一言の相談もない)作戦に驚愕したゲールによってガミラス本星に通報され、あと一歩の所で『ドメル君、君はヤマト1隻の為に我がバラン星基地を犠牲にしようと言うのかね?君はとんでもない浪費家だよ、やめてくれたまえ』とデスラーから作戦中止を命令される。ドメルの一瞬の躊躇により、ヤマトは反転し人工太陽に波動砲を打ち込み辛くも危機から脱した。

ガミラス本星に召還されたドメルは軍法会議で基地を失った責任を問われ、死刑判決を受けた。死刑執行の署名を求めるヒス副総統に対し、デスラーは「ドメル以外に誰がヤマトを撃破出来るのか」と署名を拒んだ上で死刑執行命令書を破り捨て、ドメルに汚名返上の機会を与えた。ドメルは、勇躍、各戦線から糾合した空母機動艦隊を率いて、七色星団でヤマトに最終決戦を挑む。瞬間物質移送機を使った雷爆撃と秘密兵器ドリルミサイルによって、九分九厘勝利を目前にしたが、真田志郎とアナライザーによってドリルミサイルを逆転され、とどめを指しに迫っていた空母4隻に命中し、全てを失う。ドメルは自身の乗る指揮艦をヤマトの艦底部・第三艦橋に密着させ、自爆。壮烈な戦死を遂げた。自爆の直前にヤマトに打電し沖田十三と交信し、お互いを祖国の命運を担う戦士と認め、ガミラスのみならず地球の未来をも願って自爆スイッチを押した。

元ネタは、「砂漠の狐」と称されたドイツの名将エルヴィン・ロンメルであることはよく知られている。また、地球やヤマトに対しても敬意を払い、ガミラスと地球のお互いの立場を十分理解した上で闘い、更に武人としての礼儀・精神に優れていたこともあり、ヤマトのファンの間でも非常に人気のある敵役の一人である。
ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

戦術家としては極めて優れており、ヤマト全シリーズ中最高位の有力候補と言える。一方では、移住計画のための重要な中継基地でもあるバラン星基地を囮に使って破壊しようとするなど戦略家としては問題が見られる。またゲールとの協調を重視せず、バラン星の作戦を事前にデスラー総統へ進言せずに独断で決行するなど、唯我独尊的で部下や上司との協調性に欠ける傾向がある。ドメル以後、「人の和」を軽視して敗れるのはヤマトの敵役の通弊となった。

2009年02月04日

島津氏(しまづし)は、日本の氏族

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。分家多数、鎌倉時代から江戸時代まで続いた薩摩を根拠地とする大名家が有名である。通し字は「忠」「久」
ブロース フィンガ チボウ ハロゲン アゴニスト リバタ シェル ハーフ あまおう スカム シャーク ステコミ ジャブ ブレー スリー フィッシュ ポプラ ロユリ ランブル さとち マリン マンディー プラク ヒール ルノー リスト ドオオ ヒット ダンス にしなり ブール マレー ビアン ハイタッチ デッキ エイド タグ最強 ホップ ラッチ サブリ ジェイリ タバスコ ワンダン ステーキ 恋人たち プレス オフィス レイシズ とまや バージャケ

守護から戦国大名へと自己形成し、また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として存続した。全盛期は、薩摩国を中心とした南九州を領有し、初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護に加え、越前国守護にも任じられている。家風として尚武を尊び、代々優れた当主を輩出し世に「島津に暗君なし」と云われ、鎌倉以来明治に至るまでその社稷を守り通した。また、越前、信濃、駿河、若狭、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、江州島津氏と呼ばれている。

なお、後述のように戦国時代に従来の宗家から庶流の一つである伊作家(同じく庶流である相州家当主を兼ねる)に当主の座が移った。薩摩藩主の島津氏はこの伊作家(相州家)の系統にあたる。

出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人

和歌山高野山にある島津家の墓島津氏は、秦の始皇帝の末裔と称する渡来人の秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下り、その子の惟宗忠久が、源頼朝から同地の地頭に任じられ島津を称したのがはじまりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。しかし、現在では同じ惟宗氏でも広言ではなく惟宗忠康の子孫とする説が有力である。惟宗広言実子説が以前の定説であったが、文官で「言」を通字としている広言の子に、武官で「忠」を通字とする忠久や弟・忠季を持ってくるのは不自然だからである。

源頼朝による抜擢の背景
一方、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は実は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とする説が、島津氏作成の史料である『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されている。しかし、学会では島津氏の頼朝後胤説は「偽源氏説」として否定する意見の方が圧倒的に強い。現在も島津氏の忠久以前の系譜については定説が無く、頼朝の抜擢の背景を解明するためにも研究課題となっている。

同じく九州の守護に任じられた大友能直と島津忠久に共通していることは、共に後の九州を代表する一族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の妾であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。島津氏も大友氏も、平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っている。

南北朝時代
鎌倉期を通じて、幕府御家人として当主は鎌倉に起居し、守護職や地頭職は一族の者が執り行っていたが、久経が元寇を機会として下向し、以来、在地化が進む。

1333年(元弘3)に後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動を起こすと島津貞久は参加する。鎌倉幕府滅亡後に京都では後醍醐天皇の建武の新政がはじまり、後醍醐親政から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてくると、少弐氏と共に足利尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐の宮方と戦う。南北朝時代には1342年に征西将軍として派遣された南朝の懐良親王が南九州へ入り、一時は南朝方にも属する。

南北朝の争乱のさなかである1340年には貞久の嫡男の島津宗久が死去すると守護国の分与を巡って島津氏久と島津師久とが対立する。島津氏久は陸奥守に任じられていたのでその子孫は奥州家、島津師久は上総介に任じられていたのでその子孫は総州家と言われ、この両家の対立は室町時代に総州家が断絶するまで続いた。

なお島津氏は上洛嫌いであり、室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは4代将軍義持の治世、1410年(応永17年)の一度きりである。

戦国時代から近世へ
戦国時代に入ると領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が始まり、宗家は衰退する。やがて庶流の伊作忠良(伊作島津家)が台頭して他家を圧倒し、その子の島津貴久は宗家の養子として家督を継承し、薩州家など有力諸家を退け島津氏を統一する。貴久の嫡男である島津義久の時には、1578年の耳川の戦いにおいて豊後大友氏に大勝し、また1584年の沖田畷の戦いで肥前龍造寺氏を撃ち破り、「三州の太守」として君臨する。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)とともに、戦国最強とも言われた薩摩武士を率いて三州統一・九州統一を目指し躍進する。1587年秀吉の九州攻めを受け降伏するものの、2国1郡は安堵される。

江戸期
関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るも、所領安堵を認めさせることに成功する。江戸時代初期に琉球に侵攻して奄美諸島を領有し、琉球王朝を支配下に置いた。幕藩体制下にあっては、宝暦治水に代表される幕府の弱体化政策など圧迫を受ける一方で、徳川綱吉養女・竹姫が島津継豊の後妻として嫁いで以降は寔子(11代将軍・家斉正室)、敬子(篤姫)(13代将軍・家定正室)と将軍家と婚姻を通じ縁戚関係をも深めること度々であった[1]。武家でありながら、将軍家御台所を2人も輩出したことは異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため継嗣問題などへ介入されることが無く、幕府との関係は友好的かつ安定的に推移した。

幕末にいたって、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興す取り組みを見せた(集成館事業)ものの、その結実を見る前に、幕藩体制崩壊の動乱期に入り、藩内より尊皇倒幕の志士を多数輩出、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら遂に外様で反徳川の毛利氏と結び倒幕の中心となる。

明治以降
明治にいたり、島津忠義の本家と、実父島津久光が維新後自ら分家した玉里家の二家に公爵が授爵される。他、有力分家に昭和天皇第五皇女子清宮貴子内親王が嫁した日向佐土原島津家(幕末時2万7千石 伯爵)がある。その他多数の分家が男爵に任爵された。

今上天皇の母方の祖母は、島津忠義の七女・俔子であり、現在の皇室との血縁もある。

系譜
凡例 太字は当主、太線は実子、斜は養子

             
              島津忠久
               ┣━━┓
               忠時 忠綱
           ┏━━━╋━━┳━━┳━━┓
           忠継  久経 高久 久時 忠経
           ┃   ┣━━┓     ┣━━┳━━┳━━━━┓
          山田忠真 忠宗 久長    宗長 忠継 忠光 伊集院俊忠
               ┣━━━┳━━━━┳━━━━┓
               貞久 新納時久 樺山資久 北郷資忠
  ┏━━━┳━━┳━━━━━┫
  ┃   ┃(総州家) (奥州家)
 川上頼久 宗久 師久    氏久
         ┃  ┏━━┫
         伊久 元久 久豊
               ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┓
               ┃                                  (薩州家)(豊州家)
               忠国                                   用久   季久
      ┏━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┓                       ┃    ┃
    (相州家)      ┃          (伊作家)                     ┃    ┃
      友久       立久           久逸                      国久   忠廉
      ┃        ┃            ┃                       ┃    ┃
      運久       忠昌           善久                      重久   忠朝
      ?  ┏━━┳━━┫            ┃                       ┃    ┃
      忠良 忠治 忠隆 勝久           忠良                      忠興   忠広
               ?┏━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓  ┃    ┃
               ?┃                        (垂水家)(宮之城家)┃    ┃
               貴久                          忠将    尚久 実久   忠親
            ┏━━╋━━┳━━━━┓                   ┃     ┃  ┃    ┃
            ┃  ┃(日置家)(永吉家)              (佐土原家)   ┃  ┃    ┃
            義久 義弘 歳久   家久                  以久    忠長 義虎   朝久
               ┃       ┃                   ┃     ┃  ┃    ┃
               忠恒      豊久                  忠興    久元 忠辰   久賀
               ┃                           ┣━━┓     ┃
               光久                          久雄 久富  入来院重高
               ┃                           ┃  ┃
               綱久                          忠高 久寿
               ┃                           ┃
               綱貴                          惟久
               ┃                           ┃
               吉貴                          忠雅
               ┣━━┓                        ┃
               継豊 忠紀                       久柄
            ┏━━┫                           ┃
            宗信 重年                          忠持
               ┃                           ┃
               重豪                          忠徹
            ┏━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━━┳━━━━┓     ┃
            寔子 斉宣 奥平昌高 忠厚 有馬一純 黒田長溥 南部信順   忠寛 
               ┣━━┳━━┳━━━┓
               斉興 忠公 忠剛 松平勝善 
       ┏━━━┳━━━┫     ┃
       斉彬 池田斉敏 久光    敬子(篤姫)
               ┃
               忠義
               ┃
               忠重
               ┃
               忠秀
               ┃
               修久
               ┃
               忠裕


島津氏族
島津氏の系統には以下がある。現在の島津宗家は、伊作家出身である。

庶流(江戸期以前)
越前家
伊作家
奥州家
薩州家
総州家
相州家
豊州家
信州家(信濃島津氏)
庶流(江戸期以降)
加治木家
垂水家
重富家
玉里家
今和泉家
宮之城家
永吉家
日置家
佐土原家(佐土原藩主)(垂水家の分家)
庶家
伊集院氏
樺山氏
川上氏
北郷氏
新納氏
町田氏
山田氏
和泉氏
義岡氏
桂氏
喜入氏
佐多氏

2009年01月21日

ワックスはスキーの滑走性の向上

ワックスはスキーの滑走性の向上と、滑走面の保護のために使用する。 固形のもの(アイロンで溶かして塗りこむ)、液体のもの(スプレータイプとリキッドタイプ)、パウダータイプのものがある。 固形のハイドロカーボン(パラフィン)、フッ素などでできたワックスは、専用のアイロンで溶かしてスキーの滑走面に垂らしてからアイロンを動かしてまんべんなく塗りこむ。冷えて固まった後、プラスチックの厚い定規のようなスクレーパーで余剰分を削り落とす。この一連の作業をホットワックスという。滑走面に浸み込んだ汚れがワックスで浮き出るクリーニング効果もある。雪温に応じてフッ素の配合率が違う複数のタイプを使い分ける。春先など雪温が高くなるほど水分が多くなるので高雪温用はフッ素配合率が高い。 スプレー式のワックスはホットワックスに比べて手軽だが持続性に欠ける。スプレーした後、コルクや専用のブラシで滑走面を磨くようにして塗りこむと良い。 パウダー式のワックスは主にスタートワックスとも言われ、アルペンレースなどのスタート直前に滑走面にふり、スプレー式と同様にコルクで磨いて塗りこむ。持続性はなく、スタート直後、最初の1?2ターンしか持たない。フッ素100%配合であるため通常のワックスよりも非常に高価である。固形タイプやリキッドタイプのものもある。 コンマ1秒を競う競技スキーはその日の雪の状況や雪温を調べ、それに最も適したワックスをぬる。

初心者などの間では「ワックスを塗るとスピードが出て危険だ」という誤解が生じがちだが、スキーが滑るということとコントロールできずに暴走するということは根本的に違うものであり、技術の向上、滑走面の保護の面からも技術レベルにかかわらずワクシングは必要である。

服装
また、スキーヤーは、以下のような服やアクセサリーを身につけるのが一般的である。

スキーウェア
防寒具としてはもとより、一般のスキーヤーの間ではファッションとしての要素も併せ持つ。かつては蛍光色や原色などの、雪の白に対して映える色使いが主だったが、近頃はスノーボーダーの影響からか、ストリート系、ルーズファッションと呼ばれる街着に近い型が流行している。

競技用ウェアでは少しでも空気抵抗を減らせるよう体に密着したデザインとなっている。また、選手のスポンサー企業のロゴなどがあしらわれることもある。

いずれも転倒時に硬い雪面等から身を守れるよう、堅牢な作りとなっている。

ゴーグルまたはサングラス
速度が出るごとに威力が増す降雪や気流、雪面から照り返す強い太陽光から目を守るために装着する。吹雪などで前方の視界が確保できないことは危険であるし、また強い太陽光は目を傷める可能性がある。

ゴーグルの中にはレンズが着色されていてサングラスの機能を兼ねるものも多くある。安価なゴーグルやサングラスの中には、色つきでも紫外線を遮断しないものがあり、かえって目を傷める(可視光が遮られて瞳孔は拡大するが紫外線量は変化しない)ため注意を要する。

スキーグローブ
低温下でも指先の感覚を失わないよう、分厚い作りになっている。手のひら側には革や樹脂などの滑り止めが施され、ストックを安定して掴むことができるよう工夫されている。

帽子またはヘルメット
競技では、ときに時速100kmにも達する速度で滑走するため、転倒時などに頭を守るためのヘルメットを着用する。髪の空気抵抗を抑える役割も持つ。

一般のスキーヤーでは無帽の者も珍しくないが、転倒したところへ他のスキーヤーが衝突し、エッジで頭を切られることもあるため、なるべく帽子を被ることが望ましい。

プロテクター
主に競技用。転倒時の硬い雪面や、ターンする際のポールから体を守るために装着する。脛当て、臀部、大腿部、下半身全体を防護するもの、全身を防護する鎧のようなものまで様々。ウェアの下に装着し、外見ではプロテクターが目立たないタイプも普及している。

一般向けには初心者や小児の怪我防止に簡易な膝当てなどが使用されることがある。

滑走技術

直滑降
板を平行に保ち、ターンをせずに斜面をフォールライン方向にまっすぐ降りていく技術。 アルペンスキーに限定されない全てのスキーの基本技術であり、緩斜面においては初心者も学ぶ技術ではあるが、 エッジを足場とすることがないため、斜度がきつくなりスピードが高速になるにつれ、 直滑降を維持して滑走するのは高度な技術となる。 高速系種目では両スキーの外エッジを足場として安定した直滑降を行っている。

斜滑降
板を平行に保ち、斜面のフォールラインに対して板を斜めにおいてエッジを立てた状態でフォールラインに対して斜め方向にまっすぐ滑走する技術。

横滑り
板を平行に保ち、斜面のフォールラインに対して板を直角ないし斜めに置いて、脚を谷側に傾けることでエッジを緩めて板に対して横に滑走する技術。方向は、フォールライン方向でも斜め方向でも、意図した方向であればよい。

プルークボーゲン
両方の板の先端を近づけて後端を遠ざけてハの字のように置き、エッジを立てて制動を掛けながら交互にスキーを踏んで滑る技術。ハの字(プルーク)を作ることにより次のターンの迎え角ができているため、スキーを交互に踏むだけでターンができる。安全のために初心者が最初に学ぶ技術のひとつであり、状況に応じて全てのスキーヤーが用いる基本技術でもある。

プルークターン
プルークボーゲンが発展してスピードの次元が速まり、かつ外スキーをずらす方向が横方向から縦方向へ変わることにより、内スキーのインエッジが緩み、外スキーに同調してくる。これがプルークターンである。さらにスタンスもハの字(「プルーク」)から平行(「パラレル」)へ変わっていくとターンもパラレルターンへと変わる。

シュテムターン

パラレルターン
板を平行にしたままターンする技術。スキーを揃えて谷スキーを踏み、山スキーへ踏みかえる。踏みかえは、両足を交互に動かす交互操作と、同時に動かす同調操作とがある。より細かくはスキッディングターンとカービングターンに分類されるが、実際の滑走では両者の中間的なものが多く見られる。プルークターンと同じで外足荷重が基本である。筋力の強い人などは無理やりに板を揃えてターンしようとするが、本来のスキーは両スキーに正しく荷重してターンするものである。(たいてい無理やりに板を揃えて滑っている人は、両足を異様に狭めてたり、後傾姿勢などで滑っている。) まったくの初心者でも、正しい荷重の仕方などをすれば短時間で十分習得可能である。

ショートターン(ウェーデルン)
早いリズムで外スキーから次の外スキーまで踏み換えながら滑る技術。パラレルターンの小回り的といえるが、パラレルターンの小回りだけをウェーデルンというわけではなく、ボーゲンでも早いリズムでターンをしていればウェーデルンといえる。おもに上級者のターン技術。全日本スキー連盟では90年代後半に入り、教程から削除し、使用しなくなった。これはウェーデルンという言葉の意味がもともとドイツ語で「犬が尻尾を振る」という意味であるためで、この時期に登場したカービングスキーによってショートリズムでも丸いターン弧を刻むことができ、テールを押しずらしてターンを刻むという意味に合わなくなったためである。よって従来ロングターンをパラレルターン、ショートターンをウェーデルンとしていたのをそれぞれパラレルターン大回り、パラレルターン小回りと呼ぶようになった。しかし日本職業スキー教師協会(SIA)では独自の教程を設けており、現在でも使用している。また、テールを振る(反動を使った)ショートターンと弧を描くショートターンの2つが使えると、より実践的であらゆる斜面に対応できる。

ステップターン
ステッピングターンとも呼び、踏み出しと踏み蹴りの二つがある。

踏み蹴り 
ターンの切り替え時に外スキーを踏み蹴って内スキー(次の外スキー)に乗り込んで行き、減速せずにターンすることができる。
踏み出し 
切り替え時に内スキー(次の外スキー)を山側に踏み出し(重心は外スキーと内スキーの間)、乗り込んでスキーを押しずらしていく。スタンスを「ハの字」(プルーク)にして踏み出した場合を特にシュテムターンと呼ぶ。

前者の踏み蹴りはかつてアルペンレースでポールをクリアしていく時に多用されたが、サイドカーブのあるカービングスキーの普及により、踏み蹴らなくともエッジ角度を強めるだけでスキーが切れ上がるようになったため軌道を変える必要がなくなり、以前よりは使わなくなってきている。後者の踏み出しにおけるシュテムターンの場合は初級者が外スキーの踏み換えを覚える際やレベルに関わらず斜面状況が悪い場合に安全に滑り降りるための技術として多用される。

スキッディングターン
パラレルターンの一種であり、山スキーに踏みかえた後に、スキー板をずらして制動しながら回旋してから山まわりに移行することでターンする技術。ターンの外足がプルークターンやシュテムターンと近い動きをするため、パラレルターンの中では易しい技術であり、また安全を重視して滑る技術でもある。

カービングターン
パラレルターンの一種であり、ターン開始時に脚をターン内側に傾けて、意図的な加重や外力を利用した加重によってスキー板をたわませて曲面を作り、これを雪面に食い込ませることで足場を作ってターンする技術。スキッディングターンと異なり板の制動要素が少ないため、高速滑走が可能となる。パラレルターンの中では難しい技術であり、1990年ごろまではごく一部のスキーヤーのみの技術であったが、カービングスキーの登場により一般スキーヤーにも可能な技術となった。なお、カービングとは「彫る(CARVE)」の意味であって「曲がる(CURVE)」の意味ではない。実際に完全なカービングターンで滑ることができる状況は限られており、圧雪され、かつ大会バーンのように一般スキーヤーから隔離されて安全性が確保された状況のみである。通常はスキッディングターンを組み合わせて滑る場合が多い。

クローチング
高速滑走時にとる姿勢。主にアルペンレースの大回転以上の高速系で用いる。板は平行に肩幅かそれより若干広く開き、足首と膝を屈曲して腰を落とし、上半身は前に倒す。腕は軽く曲げた状態で前方に突き出し、手の平を上に向けてストックを握り、ストックは脇から身体に沿わせるように後方に出す。顔は前方を見る。直滑降か、脚を左右に傾けて行うクローチングターンと呼ばれる浅いターンが基本的な滑りとなる。

ジャンプターン
山岳スキーなどにおいて極端に狭い斜面などにおいてターンする際にジャンプして板を浮かしながら板の方向を変える技術。

キックターン
斜面で静止状態で方向転換するための技術。両方の板をフォールラインに対して垂直方向に揃えてエッジを立てて静止している状態から、谷足を爪先を上にするように持ち上げ、板のテールを前方に出す。その状態から板のトップを谷側を経由して後方に持っていき山側の板と逆方向で並行になるように着地させる。これによって、脚は極端な爪先開きの体勢となる一方、上体は谷を向く方向。次いで、山足を持ち上げて身体の捻れを解くように谷側に移動させて両方の板が並行になるように着地させる。これによって方向転換が完成する。

狭義の滑走技術ではないが、急斜面や狭い場所、スキーレッスンなどにおいて安全な方向転換のためには欠かせない技術で、初心者の段階から習得を求められるものである。
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階段登行・開脚登行
斜面を登るための技術。階段登行は、両方の板をフォールラインに対して垂直方向に揃えたまま、山足をさらに斜面の上へと、脚を上下させることで移動し、次いで谷足も同様に移動することを繰り返す。開脚登行は、斜面を上に見る方向で正面を向き、爪先を開いた状態で両方の板の内エッジを雪面に食い込ませることで足場を確保し、双方の足を交互に前方に出すことで登っていく。両方の技術が可能な場所では開脚登行のほうが大きく踏み出すことができるために効率的に登ることができるが、急斜面では開脚登行は安全に行うことが難しくなるため、階段登行のほうが有効な技術となる。

これもまた狭義の滑走技術ではないが、現実のゲレンデでは斜面の登り返しが必要となる場所もあり、また滑走中に転倒したり物を落としたりすれば止まって引き返す必要があるため、こうした技術は滑走を続けるためには必須で、初心者の段階から習得を求められるものである。

SAJ バッジテスト・SIA 技術検定
SAJ(全日本スキー連盟)、SIA(職業スキー連盟)はスキーヤーの技能レベルを客観的に判断する独自のスキーバッジテストや技術検定を設けている。

競技
山岳スキー技術として誕生したアルペンスキーは、次第に如何に速く斜面を滑り降りるかという競技に発展した。現在ではヨーロッパを中心に非常に人気の高い競技スポーツとなっており、特にオーストリア、スイスなどアルプスの国々では国技であり、勝者は国民的英雄である。

第4回冬季オリンピックから正式競技として採用されている。

概要
山を滑り降りる速さを競う競技であるが、コースには旗門と呼ばれる2本1組の旗またはポールが並べられ、その旗門を順番に通過しながら滑り降りる。旗門を通過できなかった場合は失格となる。種目によって、旗門数、旗門のインターバル、コース長、標高差が大きく変わってくる。

1回の滑走または2回の滑走の合計タイムで順位を競う。

種目
滑降 (Downhill)
スーパー大回転 (Super Giant Slalom, Super G)
大回転(Giant Slalom)
回転 (Slalom)
複合 (Combined)
滑降1本と回転2本の合計タイムを競う。
スーパー複合 (Super Combined)
2004-2005年シーズンのワールドカップからの新種目。滑降1本と回転1本の合計タイムを競う。
FISワールドカップでは、複合よりも主流になりつつある。